72
珍しく寝ざめが良かった。
これと言って他に理由はない。神藤杏子(しんどうあんず)が早朝に自力で目を覚ましたのは、完全に偶然の出来事だった。
前日の仕事が早めに終わったおかげで夜十時には布団に就くことができたとか、先月頭にやっとこさ解決した件の残滓が終息の兆しを見せたとか、もちろん早起きに至るファクターは存在するのだが、それでも杏子が朝の五時半に自力で起床するというのは、宝くじの一等当選に匹敵するほど珍しいことなのである。同居人には「医者に行け! 夢遊病は怖いんだぞ!」と割かし本気のトーンで心配され、隣人からは手を合わせて拝まれた。
──人のこと、何だと思ってるんだっつーの。
寒空の下、ベランダで煙草をふかしながら杏子はひとりごちる。
二月の早朝は日の昇りが未だ遅い。マンション二階から見渡せる町は薄暗く、端々には夜の帳が残っていた。
杏子からしてみれば珍しい夜明け時の町。慣れ親しんだ夕暮れ時とは違い、清々しいものがある。それはある種の優越感だったり、冬の空気の冷たさだったり、非日常的な行動をしたことに対する喜悦だったり。わざわざ快感の在りかを考察するのは無粋なだけだから、深く考えず感覚的にただ身を委ねるだけだが。
頭を空っぽにしてぷかぷか煙をはき出しながら空気の心地よさに浸っていると不意にシャッターの開扉音が聞こえてきた。
どうやら一階の薬局『龍心堂』の入り口が開いたらしい。外に出てきた店主と目が合った。
「…………早く寝たほうがいいぞ」
開口一番。向けられた言葉に杏子のこめかみがぴくりと動く。
「今起きたとこだっつの」
「肌の曲がり角は、いくら俺の薬でも真っ直ぐにすることはできん。そしてお前の根性も」
「付け足しでひどいこと言ったね! 言ったねアンタ!」
「騒ぐなババア。便所迷惑だ」
「便所迷惑なのは男の的外れな射撃力。そんでババアっつったな今ぁ!」
「やかましい。その部屋から追い出すぞ」
「すいませんでした」
龍崎誠(りゅうざきまこと)。
二十七歳。
杏子の高校時代の同級生にしてマンションの管理人にして龍心堂店主。
長身の短髪黒髪で好青年な印象を受ける風貌をしているのだが、その性格は竹を割ったようにさっぱりとしていて明快。歯にもの着せぬ言動ながら周囲から恨みを買うこともないのは、彼の振る舞いが本心から来ているものだと周りの人間に気付かせる動きを彼自身がしているからなのかもしれない。ただ、杏子に対しては悪意と冗談に満ち溢れている。
「まあ、起こす手間が省けてよかったという事にしておこう」
「そりゃどーも。毎日お世話さまですねー」
「早起きできないババアはただのババアだからな」
「全国の低血圧のご婦人方に謝れ全力で!」
「ドーモスイマセンデシター。ワー。ちなみに低血圧と朝起きることができないという事に因果性はない。ただの都市伝説だ」
「え、まじで」
「血行不良による内臓機能の低下。そこからくる倦怠感が『朝は調子が悪い』と錯覚させているだけだ。低血圧の人間は調子悪の状態が断続的にみられる。朝限定ではない。だから『朝弱い』というのは単なる言い訳にすぎん。気合が足りん。正常血圧BBAのお前が朝起きることができないのは、ただの怠慢」
「ふーん。……BBA?」
「深い意味はない」
いつの間に持ってきたのか、竹ぼうきで店の前の道を掃除しながら誠は話題を変える。
「今日が何の日か知ってるか?」
「はい?」
言われて杏子は部屋の中に目を向ける。窓ガラス越しに見えるカレンダーの日付を指さしで数え、自分の記憶と照合。
「……二月十日? なんかあったっけ?」
「ついにボケたか。今日は十四日だろう十四日。言っておくが痴呆症の薬はないからな。ちびまるこちゃんのコマーシャルに倣って早急に病院へ行くことを勧める。頼むからトモゾーの二の舞にはなるなよ」
「トモゾーはまだボケてねえよ!」
というか、
「十四日……?」
雪消月。如月。二月。
二月十四日。
つまりは、バレンタインデーだった。
古くはローマ帝国時代に行われていた女神の祝日であり、当時生活が別々に区切られていた男女たちが翌日に催される豊穣祈願祭のためのパートナーを決める準備をする一日であったらしい。
現代においては国ごとで風習が変化し、独自の形式でバレンタインデーを祝うところも多い。
そんな中、日本では女性が男性に贈り物をするのが通例となっており、広義ではあるが同時に想いを相手に打ち明ける日としても認識されている。
「それがどうしたっての。あ、分かった。アンタ期待してんでしょー柄にもなく。早起きまでしちゃってさー」
したり顔で言ってやったが冷たい目で一瞥され、冷静に話を続展された。
「で本日二月十四日バレンタインデー。四の付く日は休業している龍心堂だが、さて。なぜ俺は通常の営業時間よりも三時間近く早く店を開けているんだろうか?」
確かに。
龍崎誠が経営する薬局『龍心堂』は朝九時から夜八時まで開いている。加えて四・十四・二十四は定休日。開店の理由でもあったかなと思い出してみるも、何も思い当たらない。
「……さあ?」
「さあ? じゃない。馬鹿が。昨日聞いてなかったのか? だから早く仕事を終わらせてやったって言うのに」
「えーっと……ははは。なんかあるんだっけ?」
誠は、口は悪いが嘘は言わない。カマは掛けるが真実を語る。
それを知っているだけに、自分でも本当に早期の痴呆が入ってきたかと疑ってしまう。誠の言葉を肯定することになってしまう気持ち悪さと自分への落胆で立ち直れなくなりそうだ。
「お前の鳥頭加減は知っているからな。覚えておけと言った俺の方が悪い。すまん」
「謝らないで泣きたくなるから!」
老人の気持ちを少しだけ理解(してはいけないような気もするが)した杏子だった。
「まあ、お前を起こす手間が省けたのは本当に良かったと思ってるよ。サモハンキンポーも仰天するアクロバティックな寝相のお前を起こすのは、A連打で戦闘に興じるドラクエXの戦士のレベル上げくらいの難度だからな」
「けっこう片手間だ!」
「何にせよ、ほら────予約のお客さんだ」
言われて杏子は、誠の視線を追う。行先は龍心堂が入ったマンションから数メートル離れた電柱。その陰から出てきたモッズコートのフードを深被りした人物。
その人物は両手で胸に何かを抱えていた。風よけの衣類にくるまれていて確かめる術はないが、抱き方から推測するに赤ん坊か。
「いらっしゃい。予約いただいていた浜先かえでさんでよろしいですか?」
誠が尋ねると相手はこくりと静かに頷いて歩み寄る。
背丈は百六十センチ程度。体格は服の上からでも分かるほど細くて華奢。
「一応、本人の確認をさせてもらっています。顔写真の付いた証明書なんて持っていますか」
「…………学生証なら」
声が若い。
──高校生か、大学生……?
適当に予測をつけて二階から動向を見守る杏子だったが、ファー付フードを外して露わになったモッズコートの人物の顔を見た途端、昨日誠に言われた言葉が──『『七十二の断片』絡みだ。明日の朝六時前に来るらしい。早めに寝ておけ』──鮮明に蘇ってきた。
「ありがとう。本人であると確認した。ここから先は敬語を排除させてもらう。じゃあ、依頼内容を聞いておこうか」
誠に促され、予約客の少女もとい少女であった彼女は目じりに涙を溜めながら訴える。
「私を……私と彼を元に戻してください……!」
学生証に印刷された浜先かえでの生年月日は一九九六年九月二十八日。しかし彼女は若い女性の顔をしていなかった。彼女は、皺だらけの老婆の顔をしていた。
「承った。ようこそ龍心堂へ。そういう訳で仕事だ、神藤。降りて来い」
ぽとり、と。
煙草の灰がベランダの手すりに落ちた。微弱な風にさらわれ、灰は流れて消えていく。
短くなった煙草の最後の一口をゆっくりはき出した杏子は、火をにじり消して誠に応じた。
「はいな」
これは二月十四日に起きた物語り。
バレンタインデーと男女関係と不可思議を一括りにした、なんの教訓もないただの物語りである。