おと

 姿が消えた。と認識できた時には、もう懐に飛び込まれていた。

 刃が喉元に突き付けられている。踏込みから抜刀までの所作が全く見えなかった。視覚する事すらままならなかった。夜、という事を差し引いてもその速度は尋常ではない。

 ほんの少し、微細に、僅かに首を傾けると喉に刃がチクリと喰い込む。

 「動くな」と。まるで恋仲であるかのように身を寄せる女は刀を押し付けたまま言外にそう示している。

 相手が女だからといって軽視していた訳ではない。しかし少なからずアカズだという事で油断していたのは否定できない。事実、女は両目を包帯で覆っている。もしも意図的に目を覆っているのだとしても幾重にも巻かれた包帯の奥からは、およそ視線と呼べる感覚が認められなかった。

 一枚布に袖を通し、帯で腰を締めた軽装。足元は第一指と第二指の間から伸びた紐に引っ掛けて履く不安定な履物。このような装いで目にも留まらぬ挙動に至ることができる意味が分からない。

 これが極東の戦人『侍』。

 ──聞きしに勝る剣客だ。

 喉元に喰い込む刃の事も忘れ、エイバニアは思わず笑った。

 腹の底から湧き上がってくる闘争心を抑え切れない。アサシンを生業とするエイバニアが持ち得る最高速度と同等かそれ以上の能力。血沸き肉躍る。柄にもなく心が燃焼を始める。

「女。アザリア(この街)には観光か? 仕事か?」

 返答はない。

 刃も微動だにしない。

「だんまり、ね。……オーケーこっちも仕事だ。生憎、俺も雇われの身でな。せっかく楽しめそうな相手だがクライアントがせっかちな人でねぇ。さっさと済ませなきゃなんねぇの。だから一つだけ聞かせろ」

 エイバニアは嘆息して、

「お前の名は?」

 その言葉に不意を突かれたのか、無表情だった女の口が僅かに動くがそれも一瞬。しかし転瞬。口角を吊り上げながら小さく呟いた。

「わっちを語るには言葉では足りんせん。わっちを語るには、どうか──闘争の中にて」

 直後。

 エイバニアの姿が掻き消えた。

 夜のとばりが下りた街。暗闇に乗じての行動と併せ、周囲の構造は把握済み。地の利は暗殺者にある。

 暗闇に一人取り残された女は刀を一度鞘に戻し、鍔を押し上げて引き出した刃の峰を人差し指で弾いた。

 鈴のような凛とした音が波紋状に広がり、闇に浸透していく。

 女が戦闘時に用いる間合い技『鈴動(りんどう)』。

 徐々に、徐々に小さくなっていく音。ついには聞こえなくなってしまったのだが、女の耳(瞳)には振動の残影が未だ確かに見えていた。