BEAT IT!
六十五から六十四へ。
右腕に浮き出た数字は存在意義を無感情にカウントダウンしていく。
この刺青にも似た刻印がゼロになった瞬間、なにが起きてしまうのか。あるいは私欲で時渡りを実行した自分がどうなってしまうのか。『時使い』の末裔たる神楽坂(かぐらざか)は全てを理解していた。
私欲での時渡り、過去未来への不要な干渉。これを固く禁ず。
幼いころから何度も聞かされていた一族の掟である。
『時使い』の力は、時間を容易に弄ぶ。たとえば今の状態にならないように過去へ行って根源に干渉したり。今後の状況を知るために未来へ跳んだり。
時を渡る事、それすなわち時代を動かしかねない行為なのだ。
掟は守るもので、守らなければならないもので、守れるものだと思っていた。思っていたし、破るはずもないとも思っていた。────この時が訪れるまでは。
『時粒子の乱れを確認、検証中**********判明。眼前の生体を『時使い』と特定。神法第特¥ヘ・第九十八節により──』
対象を殲滅する。その無機質な声が耳に届いた瞬間、神楽坂の十数メートル先にいた男の姿が消えた。否、爆裂的な脚力で懐に踏み込んだ。
風よりも疾く男の威圧が届く。神楽坂の心臓が跳ねる。次ぐように男の拳が遅れて到来し。回避、は間に合わない。防御逸機。──歯を、喰いしばれ!!
コンマ一秒で行動を瞬結した神楽坂の腹直筋に拳がめり込んだ。金属のように硬い拳はそのまま力任せに振り抜かれ、五十メートル後方にある壁に叩き付けられた。堅牢な強化コンクリートが割砕して陥没。身体はほんの数秒だけ壁に留まり、地面に落ちた。
即死するほどの一撃だった、と思う。
腕の数字が薄らいで消え、六十四から六十二へ変わり、再出する。
神楽坂は何事もなかったかのように立ち上がり、腕の刻印をちらりと確認して五十メートル先にいる男を視とめた。
先の速度、上背百八十強の神楽坂を優に超す長身痩躯の動きとは思えない。
金の髪は長く、感嘆してしまうほど整った顔は感情が覗えない。眼窩におさまった青はさめざめとしていて光がなく、濁っていた。
機甲天使ミカエル。
それが、未来(この時代)に造られた半人半機の個体識別名称だ。
コンセプトは人類の守護。
ヒヒイロガネをベースとした数種類の希少金属で成した装甲は、薄くありながら強固な防御機能を発揮し、攻撃に転じた時には最強硬度の破壊凶器と化す。
おまけに筋力は補強されているから一撃一撃が必殺を意味する。生身の人間が立ち向かう術などない。
事実、先の一撃をしのいだ神楽坂もその類に漏れない。
神楽坂は攻撃を受けていなかった訳ではない。攻撃を受け止めたうえでその衝撃を時渡りの力で先送りにしているだけだったのだ。併せて叩き付けられた時の分も。
根本的な解決にはなっていない。衝撃は後から必ず来る。しわ寄せは、ツケの清算は、必ず受けなければならない。
『……今ので駄目か。把握した。出力を上げよう』
遠方、機甲天使ミカエルが無機質な声で呟いた。彼の背中から真横に二本、光が伸びる。
『出力上昇……安定を確認。体晶残量規定範囲内。神法第特¥ヘ・第九十九節により──フォトンを起動する』
直後、伸びた光が羽を開くように一気に広がり、巨大な翼が出現した。神々しい光を放つそれは、まさしく天使の翼。
本物の天使などこの世界には存在しない。だから代わりに機甲天使が造られた。そしてその機甲天使が人類の守護を目的としているのだとすれば、俺の愚行を一瞬でいいから見逃してほしいと神楽坂は思う。同時に、人が人を助けようとして何が悪いのだとも思う。
後天性結晶化症候群。
その、身体が徐々に結晶化していく病に侵された姉の治療法を求め、神楽坂は時を渡り続ける。それがどれほど掟に逆らう事であろうとも、姉の死が決められた運命であろうとも。
掟は守るもので、守るべきもので、守らなければならない事だ。
幼いころから聞かされていた内容からすれば、禁を犯した者は時神に捕らえられ、光も音も何もない時の最果てに閉じ込められるらしい。
しかしだからと言って、誰かを救う事ができるかもしれないのに、我が身を案じて掟に従うのは、ただの逃げだ。理由付けだ。言い訳をするための口実にしかならない。
悪行を働こうとしている訳ではない。歴史を動かそうなんて大それた頭もない。単純に、ただ純粋に姉を助けたい。そう思う事の何が悪い。人として、大切な人を救いたいと足掻く事の何が。
許せとは言わない。罰は受ける。でも、少しでも可能性があるのなら──
ミカエルが翼を羽ばたかせた瞬間、彼我の距離が一瞬でなくなった。半人半機必殺の一撃を意味する鋼鉄の怪腕が振るわれる。──風切音。──拳が空気を切り裂き。──神楽坂の側頭部を捉えた。
はずだった。
振り抜いた拳に遅れて烈風が駆け抜け、強化コンクリートの壁が両断される。しかしそこに神楽坂はいなかった。斜めに斬られた壁がずれ、砂煙を伴いながら地面に滑落していった。
『…………これも駄目か』
感情を全く感じない声でミカエルは再び呟く。
『問、貴様は人間か?』
呟く。背後ろへ向けて。
それに対する神楽坂の答えは無言だった。
応じる必要はない。答える義理も、意味も。
なぜなら自分は、掟や決まりなんかで縛る事の出来ない感情という面倒なものを宿した人間に相違ないから。
分かり切った事を聞くな。暗にそう示している神楽坂は両眼を見開いて腕を広げた。
「いいから掛かってこいよメカ天使。全部読んでやるから」
『時使い』の力を解放。腕の数字がカウントダウンを始める。黒目の形状変化。渦を巻くように。まるで時の流れを表しているかのように。
カラリ、とサイドテーブルを何かが転がり、床に落ちた。
ベッドで本を読んでいた女性がそれに気付いて重々しく身体を起こすが、この位置からは見えない。
ゆっくりと身体を動かしてベッドから身を乗り出すと、埃に塗れた小汚い小瓶があった。
拾い上げて中を見ると、小さな結晶が二欠けと、紙の切れ端が入っていた。
『おまたせ』
見慣れた汚い字だった。