TO SMASH!

「いや自分、天使っすね」

 壁に寄り掛かり、右手で顔半分を覆い隠しながらリタニエルは気だるそうに言う。

 金髪碧眼の、しかも真っ白なノースリーブワンピースを着た外見清楚な少女が発する言葉としてはあまり適当ではない。

 ワンピースから伸びた腕は色白なうえ華奢でどう見ても体育会系とは言えないし、スラリと長い脚は陽炎漂う夏の日差しの下でも日焼けすらしていない。

 背中に付けた小さな翼がダンボール製でなければ。頭に付いた黄色の輪っかに、柔軟性に優れたスチールの支え棒さえなければ。

 あるいは彼女を本当の『天使』であると端から信じていたかもしれない。

「旦那。いい加減に往生してくだせえ。しわ寄せってのは必ず訪れるモンなんす。それがたとえば旦那に降りかかるはずだった負のイベントを、未来予知によって今まで回避できていたとしても」

 未来予知。

 それはヒストグラフとも呼ばれる『運命の書』の別称。リタニエルはそれを追って地上に降りた。

 今現在それは彼女に回収されているのだが、一足どころか二足も三足も遅かったらしい。

 拾い主である九条竜摸(くじょうたつも)が未来予知の項をめくって不幸を回避してしまった事により、その負のイベントがどこかの誰かに移譲されてしまったのだ。

「ただ、それだけじゃないっす」

 リタは腕を下ろして続ける。

「確かに、回避した不幸は誰かに行き渡ります。でもっす。不幸には不幸のルールがあるんす」

 曰く、それは生まれながらにして決められた運命だと言う。

 曰く、それは避けることはできずとも如何様にも受け止める事ができるのだと言う。

 曰く、それはもしも無理矢理に捻じ曲げてしまっても、別のルートで自分に降りかかってくるのだと言う。

 つまりは──

「旦那。あんた、どう頑張っちゃっても今日死ぬんす」

 初めの未来予知は雨だった。

 次の未来予知は駅のホームからの転落。その次は通り魔。交通事故。

 全て回避した。それらのイベントと出くわす事のない脇道に逸れ、かったるいとぼやくだけの日常を送っていた。

 しかしその陰で、九条が受けるはずだったそれらを代替されてしまった人たちがいる事を九条は知らなかった。リタニエルに宣告される今まで。

 その人たちがどうなったかは分からない。

 ただ、たまたま新聞で見かけた『男性が駅のホームから転落』という記事や、早朝のニュースで目にした『連続通り魔事件』の事を思案すると、もしかしたらそれは、自分が受けるべき不幸だったのでは…………。

「あと一つ。交通事故の分が残ってるっす」

 そんな事は分かっている。

 しかし、次に紡がれたリタニエルの言葉で九条の心臓が跳ね上がり、ほんの刹那だけ停止した。


「その交通事故のツケなんすがね、どうやら──旦那の彼女さんが払う事になったみたいっす」


 瞬転、九条は走り出していた。

 焦燥感が身体中を駆け巡り、心臓が締め付けられるのが分かった。同時に込み上げてくる怒り。他でもない、自分に対しての怒り。

 九条は制服のスラックスに突っ込んだスマートフォンを取り出して電話をかける──が、

『おかけになった電話は、電源が入っていないか電波の届かないところにあるため、かかりません。こちらは、NT──』

 抑揚のないアナウンスだけが虚しく木霊した。

 今日は近くのショッピングモールで買い物の約束をしていた。既に外に出ている可能性が高い。

 ぎしり、と歯を軋ませる九条。信号無しの交差点に差し掛かった瞬間、唐突に悪寒が走った。

 直後に鳴り響くけたたましいクラクション。一時停止を怠ったファミリーセダンが猛スピードでこちらに迫る。

 ──死

 脳裏を掠める明確な恐怖。だがそれ以上に、


 ──ここで死んでる場合じゃねえんだよ!


 九条は勢いそのまま前方に思い切り跳んだ。寸での所で車体を回避──そして派手に転倒。三、四メートルもの距離を転がり、立ち上がって再び駆け出す。

 ──死んでもいい。俺はもう、死んでも構わない。だけど、あいつを巻き込むのは違うんだよ! 俺の不幸で死んだ人がいるかもしれない。不幸になった人がいるかもしれない。 それはもう変えられないけど! でも! せめてあいつだけは!

 ここから先、大通りまでは約二百メートルに渡って坂道の一本道が続く。

 危険があるとすれば一方通行無視の車と自動二輪の類。

 注意を払って対処すれば、何とかできない道理もない。

 不意に横から声。一瞬だけ目を向けると、ダンボールでできた小さな翼で地面スレスレを滑空するリタニエルが。

「無茶はいかんですぜ旦那。どう頑張っちゃっても──「死ぬんだろ!?」

 九条はリタニエルを制して言う。

「死ぬのは構わねえよそれが俺がすべきツケの清算だ! でも、あいつは何も関係ねえだろが! これは俺が捲いた種だああ事実だよ。だから、テメエで避けた死亡フラグぐらい、テメエで折ってしかるべきだろうが!!」

 遅くはない。と願いたい。

 間に合うのなら、救えるのなら、死ぬ事すら辞さない。

「ははっ。旦那のそういう熱いとこケッコー好きっす。ほんじゃま好きついでに、天使(あたし)の力を貸しちゃります!」

 その言葉に、一瞬だけ呆けた顔になる九条。

「知ってますか旦那。天界者はどいつもこいつも気まぐれなんすよ。そして死亡フラグはへし折るモンじゃない。──叩 き 潰 す モ ン っ す」

 低空を滑空する少女天使リタニエルはそう言って快活に笑った。

 若干ドヤ顔だった。