ぞんび

 水、三五リットル。炭素二〇キログラム。アンモニア四リットル。石灰、一・五キログラム。リン、八〇〇グラム。塩分二五〇グラム。硝石一〇〇グラム。硫黄八〇グラム。フッ素、七・五グラム。鉄、五グラム。ケイ素三グラム。そしてその他一五の元素が少量ずつ。

 構成する成分、物質は分かっている。

 これらを組み合わせ、化学反応を起こす手順も解っている。

 では、なぜ成功しないのか。


「なぜも何も、設計図が無かろう」


 キャスター付のデスクチェアーでくるくる回る銀髪の青年がぽつりと呟いた。

「いいか? お前さんが分かっているのは、ただのロジックだ。実質的なコマンドは表面化できていないんだよ。なぁ不思議だとは思わないか? お前さんが辿り着いた構成物質の羅列は僕がヒントを与えたものだが、さて、その全てを知る僕はどうして人間を創り出そうとしないのか」

 青年に対峙するように椅子に座った男の片眉がぴくりと跳ねる。

 確かに、少し考えればおかしいとすぐに分かることだ。この銀髪の青年──異国で信仰される神が、日本の食べ物が気に入ったからと言ってこんなにも軽々しく人体創造の方法を教示するだろうか。神の特権とも言うべき人体創造の方法を。

 元・荒神ゾンビのオウンガン。

 それが、銀髪の青年の固有名称である。

 元々は『ンザンビ』と呼ばれる全知全能の神であったのだが、口伝と事実の摩耗を繰り返し、言霊と共に本来の力を失ってしまった。太陽と同一視されることもあり、宇宙の支配者とされることもしばしば。人体創造の秘術を操る妙齢の古神。

 前述した通り、これは過去の話。現在は、少しばかり不思議な力を扱うことができて不死身であるだけのただの青年になってしまった。

「まあ、僕が神であるかどうかなんてのは、どうでもいい話だ」

 オウンガンいわく、人体創造を行うには三つの要件を満たさなければならないらしい。

 まず一つ目は、構成物質の把握と理解。

 神話や伝承で語り継がれる『無から有を生み出す』という神業。これは、はっきり言ってただの妄言、嘘八百、事実無根の戯言だとオウンガンは鼻で笑っていた。この世界は基本的に質量保存の法則に依存している。一を生み出すには一が必要ということである。

 昔は土自体に必要な成分が全て揃っていたから(相当、というより異常なまでに肥沃(?)だったようだ)材料集めには困らなかったが、現代はそうもいかないらしい。

 次に二つ目。

 これに関しては、やはりと言うべきか人間の力ではどうにもできない壁が存在している。

 聖痕(スティグマ)。

 人の身体に聖痕が現れた、という話を耳にすることが稀にある。

 聖痕を得る際には、キリストや聖母マリア、天使の姿を幻視したり、その声を聞いたりするとされ、傷には出血や激しい痛みをともなう。傷口から芳香を発することがある。

 このことを聞いたオウンガンは腹を抱えて笑っていた。キリストや聖母マリアは神々から祝福を受けた亜天使の存在で間違いないから否定する気はないが、しかし普通の人間に聖痕が現れるなどまずない。

 聖痕とは、神の系譜を汲んだ者、もしくは神の祝福を受けた者に与えられる管理番号のようなものなのだ。そしてこの聖痕は、不思議な力を行使するためのエネルギー変換装置であり、許可証でもある。

 証拠に、オウンガンの首筋にはよくわからない言語で文字が刻まれている。

 最後の三つ目。

 これが最重要であり、人体創造を完結させるために必須となるファクター。

 設計図(ダイアグラム)の存在だ。

 一つ目の要件である構成物質の把握と理解。これは言わば前準備。材料があるからと言って料理が自動でできないように、何かをつくるにはそれ相応のプロセスが必要になってくる。

 ともなればそれらを纏め、組み立てるための道しるべが必要になる。それが設計図なのである。

 しかしこの設計図、厄介な事に形を成していない。

 神の脳内だけに存在し、記憶とは別枠で死するまで頭の中に保存され続ける。──のだが、

オウンガンの脳内からは設計図の記憶が綺麗さっぱり無くなっていた。それはもう跡形もなく。もともとそんな記憶などなかったとでも言うくらい。

 予測するに、神としての存在を保てなくなった時に本来の力と共に消滅してしまったのだろう。

「今一度言うけど、だからって神に戻ろうなんて僕はこれっぽっちも思っちゃいないよ。え? 何でかって? あのね、人間は神のことを偉い奴らだと思っているんだろうけど、そんなハッシュドな精神は見上げたものだけど、よく考えてみておくれよ。あいつら、近親でドンパチするようなアグレッシブな精神をお持ちの恐怖政治家たちじゃないか。ドンパチどころかイケナイ事までするだろう? いや、否定する気もなければ侮蔑する気もないよこれっぽっちも。本当本当。でも、だからって神の系譜にしがみつき続ける理由なんてないんだ。だってそうじゃないか。こんなにもおいしい天ぷらはあっちの世界にないし。あるのは林檎と酒だけさ。これだけ言えば分かるだろう? つまらないんだよ。ふんぞり返った奴らばかりの世界なんて。神は気まぐれとは言い得て妙だね。だからこれも僕の気まぐれさ。まぁ、もう神ではないんだけどね」

 失われた設計図は、もう元には戻らない。

 取り戻すには口伝を正す必要があるからだ。認識を誤ってしまった人々の根底にあるゾンビの存在を。

 オウンガンが自身で公言している通り、彼は神に戻る気は更々ない。いわく、戻るための救済的措置と機関は向こうの世界に存在しているとの話だが。

 しかして妙な状態だとオウンガンはデスクチェアーでくるくる回り続けながら顎に手を当てる。

 今現在、オウンガンは神ではなくなった。だが、神の系譜を汲む者もしくは神の祝福を受けた者に与えられる管理番号は首筋に刻まれたままだ。微弱ではあるが元素を操作するという能力も行使できる状態にある。

 ちぐはぐなのだ。

 神の系譜でもなければ祝福も受けていない。そんな存在に力が取り残されている。

「…………権天使あたりが動き出すか?」

 ぽつりと漏らす言葉の意味は、彼に対峙するように椅子に座した男には理解できない。