開幕 血濡れの仮面劇
──獲物。
その言葉が自然と浮かんでしまって、私はわずかながら戸惑いを感じていた。一度そんな風に他人を表現してしまったら、元のようには戻れないのかもしれない。
唇を舐める。
右手で仮面に触れる。
やめるのか? と問う理性の声は、ひどく弱い。
右手は仮面を外さず、スカートのポケットに移動した。冷たく硬い感触を掴み、外へ。
誰かが歩く高い靴音に合わせて、パチリと刃を出す。
ずっと、お守りのように忍ばせていた折り畳みナイフは、私の右手に妙に馴染んでいる。
何年も、柄を掴んでいるだけだった。
刃の部分は一度も使っていない。
でもそれも、昨日までのこと。
カツリ、と一際高く靴音が鳴ったのは、私と彼女の間に障害物がなくなったからだ。
明るい道を歩く彼女は、手に持ったスマートフォンに意識を向けていた。街灯に照らされない、家屋の影に隠れている私に気付く様子もない。さらに二歩、彼女が進む。私に背中が向けられる。
意外にも、すんなりと体が動いた。
ためらいはない。
恐怖も、ない。
無我夢中。理性はおろか、意識すら介入する余地がない。
私はヒールを履いた女の首に左腕をかけ、右手に握ったナイフを首筋に突き立てた。
狭まった気道から空気が漏れる音がする。力の抜けた腕からは、スマートフォンとハンドバッグが落ちる。戻ってきた意識が、右手に残る感触を知覚する。
思わず大きく吸い込んだ空気には、香水にまぎれて血の匂いが含まれていた。
ナイフを抜くと、さらに血の匂いは増す。
生ぬるい温度が私の頬に飛び散った。
左手を女から離し、自らの顔に触れる。死体になった女は倒れて動かないのに、私の興味はすでに女から離れていた。
頬に触れる。頬を汚した血液に触れる。赤く汚れた左手に目をやる。
それは、まぎれもなく「色」だった。
みんなが当たり前に持っていて、放っていた、私が渇望してやまなかった「色」だった。
社会と常識と道徳が重くのしかかって、私の感情は人の形を保っていた。
灰色に塗りつぶす他なかったのだ。
誰かを殺したいなどと思う感情は。
命を奪いたいという欲望は。
それが、赤い仮面を被っただけで解放された。解放されてしまった。無性に笑いたい気分で、しかし私の体は、どうやってその感情を表せばいいのか分からないらしい。
頬を伝う体温を感じて、涙が出ているのを知覚する。
いっそ恐ろしく思えるほどの自由が、私の目の前に広がっていた。