幕間 仮面劇の幕開け
十二月一日、私の世界は一変した。
*
その日の朝、カレンダーをめくったときには、私はまだ十二月を実感していなかった。
期末テストを終えた帰り道は、いつもよりはやい時間のはずなのに、すでに暗くなりつつあった。名残惜しそうに沈んでいく太陽がその明かりを弱め、代わりに人が作った明かりが世界を照らす。
暖色を含んでいた天からの光は、地上からの冷たい灯に押しつぶされていく。そんなにはやく気温が変わるわけもないのに、急に寒くなったように感じる。
日没を待ち望んでいたかのように、街灯が一斉に明かりを灯した。
次いで、住宅街のあちこちで光り出したのは、色鮮やかなイルミネーションだ。
人工の色と光が、町を埋め尽くす。
冬の冴えた空気は好ましいと思うのに、浮ついた人や町はどうも好きになれない。ひとけのない道に色とりどりの感情が輝いているように見えて、事実、町を飾ったのは明るい感情を抱いた人たちなのだろう。
彼らの世界に、灰色の仮面をつけた私の居場所があるはずもない。
ましてや、醜くどす黒い私の内面など。
冷え切った意識のまま、私は帰路を歩いた。
思考を止めてしまえば、外からの刺激で仮面が剥がれてしまうことはない。
──と、思っていた。
地面を蹴りそこねた右足が、中途半端に踵を上げたまま停止した。
数秒間その姿勢を続けて、ゆっくりと両足をそろえる。
深く呼吸をして、目をこらしても、浮遊した花は私の視界から消えなかった。
茎から切り離され、がくから先しかない花は、花弁を上にして浮かんでいる。私の目の高さを維持したまま、ゆっくりと回って。
一見、ただの赤い花。しかしよく見ると、五枚の花弁の内二枚だけ下半分が白い。プロペラのように互い違いになった花弁は特徴的だったが、種別までは分からなかった。
そもそも、花に興味を持った経験はない。私が見る幻覚にしては、かわいらしすぎるような気がする。
ならば、浮遊する花などという奇想天外な光景は現実のものか。
そう思ってから、ようやく私は『男』の存在に気付いた。
視界を塞ぐように浮かんだ花の向こう側に、ターコイズブルーの色彩が見える。それは華美な装飾のついた燕尾服で、また顔の上半分をおおう仮面だった。薄い水色の髪とあごひげに、不健康そうな白い肌。ステッキとシルクハットまで身につけた姿は、色さえ考慮しなければまるで紳士のようだった。
浮遊花は奇想天外だが、その奥にいる男は奇天烈だ。
私と男は動かず、ただ向き合っている。
回転する花と、形を変えるイルミネーションだけが、視界の中で動いている。
「この不思議な花、あなたの?」
私の声は、自分でも意外なほど落ち着いていた。
むしろ、事態を把握していそうな、異常事態の根源のような男の方が、我に返ったように体を一度震わせた。
「失礼、レディ。あなたの美しさに、思わず見惚れてしまった」
演技がかった口調で、仮面の男は言った。
「私の名はオクルス。その花は──私をあなたの元に導いてくれたものだ」
わずかに言葉を選ぶような間があった。しかし男はそんな素振りも見せず、シルクハットを取り、身なりに似合ったそれらしいお辞儀をした。
頭を下げたまま、オクルスと名乗った男は続ける。
「いきなり現れた上、名乗り忘れるなど紳士失格。レディ、無礼をお許しいただけるだろうか?」
「許すもなにも、あなたの紳士ごっこに付き合う理由がないけど」