第三章 信仰の道

 下を向いた馬の首の向こう側で、ルシアンがたてがみを撫でる。

「馬車での移動はいかがですか? 退屈なのは、ご容赦いただきたいのですが」

「そんな、乗せてもらってるだけでもありがたいのに」

「そう言っていただけると助かります」

 ルシアンの手の下で、馬がわずかに頭を上げた。水面からゆっくりと口を離し、前足に顔を擦りつけているところで、前後する頭の上で小さな耳が揺れている。

「ここからは人目を気にする必要もありませんので、多少は景色も見られるようになるかと思いますよ」

「そういえば、一回も馬車とすれ違っていませんよね? 道には車輪のあとがしっかり残ってるのに……」

 クローディアが問うと、ルシアンはわずかに目を伏せた。

「あ……話しにくいことですか?」

「あなたには特に。……ですが、お伝えしなければならないことでもありますから」

 そう言って、ルシアンは短く息をはく。ためらいを振り切っているようにも、話す内容を整理しているようにも見える一呼吸を挟んだ後、クローディアと目を合わせる。

「先ほど、似たような話をしましたが……現在、ルジストルとエル・プリエールの関係は良好とは言えません」

「良い関係のときも、あったんですね」

「二国とも神話時代からの歴史がありますので、仲が良いときと悪いときくらいはあってもおかしくないでしょう? 街道の轍は、交易が盛んだったころの名残ですよ」

 もう随分前のことですけれどね、と続けるルシアンの声を聞きながら、クローディアの視線は自然と下がっていった。

 クローディアは、物心ついたころからフリーデンの国境が近付いてくる話を耳にしていた。それだけ長い間、エル・プリエールは侵略されるのを止められずにいる。

 そしてついに、侵略の手はクローディアのすぐ近くまで届いてしまった。

 リヤンを、破壊されてしまった家々を、クローディアは思い出す。

「戦争中なのに、どうして……」

「戦時だから、でしょうね。数年前、エル・プリエールはルジストルを吸収し、国力を回復しようとしていたんです。……いえ、現在もそうしようとしているのかもしれませんが」

 クローディアが視線を上げると、ルシアンは右手に握った綱を引いているところだった。

 その先では、ついさっき川の水で遊んで怒られていた馬が、広い額をルシアンの背中に押しつけている。退屈だと主張しているようにも見える動きで、ルシアンに無視され不満げに鼻を鳴らしている。

「共戦協定を結んだのは、一年と少し前……くらいですかね。ルジストルもフリーデンとの戦闘に参加することはできるようになりましたから……そこまで強硬な姿勢はとらないと思いたいところです」

 複雑そうな表情で、ルシアンは続ける。

 ふと、クローディアの意識をよぎったのは、アルミュールから出るときのことだ。

 馬車の外から聞こえてきた、荒々しい声。あれが、エル・プリエールとルジストルの確執から生じたものであったなら──苦境にある母国が隣国と協力関係を築こうとしていないという話も、すんなりと信じられる。

 あるいは、侵攻の報告をイタズラと断じられたときに感じた白い軍服の兵士たちの緊張感も、もしかするとルジストルの軍が町を訪れていた影響なのではないだろうか。

「大佐、そろそろ時間です」

 兵士の声に、クローディアはびくりと肩を跳ねさせた。いつの間にか視線が下がり、人の接近に気付かないほどに視界が狭まっている。

 思い悩むたびにそうなってしまうクローディアの代わりに、周囲を気にしていたのはグレンだった。彼に頼れないこともあるのだ、と、クローディアは軽く頭を振る。

「──それでは戻りましょうか、世の果ての方」

 ルシアンに促され、クローディアは馬車へ歩き出した。前にはルシアンが世話していた馬の一頭が先程の兵士に連れられていて、その向こうに街道が見える。

 改めて、馬車の前後に続く道を見渡す。草原を貫き、川に突き当たって、そのまま沿うように上流へ向かう、石畳の道。

 やはりそこには、馬車の一台も見当たらない。冷え切った二国の関係を目の当たりにしているようで、暖かな日差しの下だというのに背筋に寒気が走る。

 クローディアが神の娘として成すべきことは、思っていたよりもずっと多いのかもしれなかった。