第二章 戦争の徒
会話も聞き取れないのに、かすかな呼吸程度、外に漏れるはずがない。意識の中で唱えても、理性の外で生じた不安が心音すら大きくしていく。
がたり、と再び荷台が揺れたときには、肩が跳ねあがりそうだった。
近付いてきた足音は、クローディアの隣で止まる。
程なくして外で声が聞こえて、車輪と蹄鉄の音が戻ってくる。詰めていた息を吐き出すと、体を硬直させていた力も抜けていった。
「もうしばらくご辛抱ください」
絶え間なく続く振動音に紛れて、低く抑えたルシアンの声が聞こえた。
さほど間を置かず、荷台が大きく縦に揺れる。クローディアの記憶を辿れば、アルミュールの出入り口には、門が内側に開かないように止めるための段差があったはずだ。
御者台との仕切り板から軽いノックの音がして、すぐにクローディアへかけられていた布が剥がされる。
目を開くと、幌を通した日光すら眩しく感じる。まばたきして光に慣らしている内に、クローディアとグレンを隠した布は完全に取り払われていた。
ルシアンは、最後に見たときとさほど変わらない位置で片膝をついている。
「アルミュールを出ました。もう見つかる心配はありませんよ」
言葉と共に差し出された手を借りて、クローディアは上体を起こした。
荷台の前後を覆う垂れ布はいまだ下がったままで、外の景色は見えない。馬の足音が軽快になって、町の外を進んでいるのが分かる程度だ。
「なにもなしで、出られたんですか」
「ええ、ご心配なく」
「フリーデンが来たのに……?」
「エル・プリエールは我々を頼りにしてはいないんですよ。特にあの町は──」
「ほとんど毛嫌いしてるって言っていいんじゃないっすかね、あれ」
軽い調子で口を挟んだティムを気にする様子もなく、ルシアンは言葉を継ぐ。
「アルミュールは元々、ルジストルとの国境地帯を警戒する砦でしたから。我々が町を訪れること自体、よく思ってはいないでしょう」
「そう、なんですね……」
と、クローディアがこぼしてすぐ、後方から馬の駆ける音が近付いてきた。
ルシアンが軽く会釈をしてから立ち上がり、御者台との間仕切りになっていた垂れ幕を上げる。その間に追いついたらしい馬の足音が、馬車と並んで歩調を緩めた。
幌の向こうから、兵士がルシアンに声をかける。
「報告します。アルミュールより、偵察の許可が正式に下りました。これよりリヤン方面へ向かいます」
「分かりました。罠や待ち伏せには細心の注意を」
「了解。大佐もお気をつけて」
簡単なやりとりの後、また馬の足音が離れていく。数秒、兵士の去った方向を見やっていたルシアンが、クローディアへ振り返る。
「失礼しました。約束した偵察隊です」
「……やっぱり、向こうは危ないんですか?」
「敵将が敵将でしたからね。このあたりまで進軍したのも、町の中に入ったものだけではないでしょう」
「…………」
フードを被ったまま、クローディアはうつむいた。
リヤンに残った両親は無事だろうか。……と、クローディアが心配するのも筋違いと感じるほど強かな二人ではあるのだが、まさかフリーデンの王が自ら乗り込んでくるとは。
グレンならば、心配ないと励ましてくれるだろう。根拠があろうとなかろうと、まっすぐな言葉は無駄な不安を抱かないようにクローディアを支えてくれる。
しかし、グレンはまだ目覚めない。手を握り返してもくれない。
小刻みな馬車の揺れに合わせてグレンの前髪が動くのを見ていると、御者台のティムが「揺れますよ」と声をかけてきた。
宣言通り、車輪が段差を下がるような揺れがある。それからは、石畳の隙間も感じないような滑らかな進みになった。
「街道の轍に入ったんで、こっからは多少快適になると思いますよー」
ティムの声につられて、クローディアは顔を上げた。
膝立ちになれば、御者台との仕切り板の上から外の様子がうかがえる。クローディアの動きに気付いたティムが座る位置をずらした。
まず感じたのは、わずかに冷たいさわやかな風だった。古い木と革の匂いがしない空気を浴びて、クローディアは大きく息を吸い込んだ。
御者台の前、馬車をひく二頭の馬の先には、騎馬が二列に並んでいる。そのせいで進む先はほとんど見えないが、遠く、街道の左側には山脈。ふもとからは広々と草原が広がっている。いまだ色の薄い緑が、幌越しの光に慣れた目には眩しかった。
「このまま北に行くと川に当たるんで、それに沿って西に行きます。山の向こうがルジストルですね」
「あれを越えるんですか?」
「谷の底に道があるんで、そこまでキツい傾斜はないっすよ。……まぁ多少は登りますけど」
二頭の馬を歩かせながら、ティムが言う。
先程とは違う感情で、クローディアは深く呼吸をする。アルミュールは初めての街だったが、これから向かう場所はその比ではない。
違う国。案内はいるものの、頼るあてがあるわけでもない。アルミュールへ行くのには「リヤンが襲撃を受けたことを伝える」という目的があったが、今回はそれすらもない。
息をつくクローディアの傍らで、偵察隊が来てから立ったままのルシアンが、積み荷の木箱に軽く腰かける。
「到着は日没頃になります。それまで楽になさってください」
「……ありがとうございます」
礼を返してから、クローディアはもう一度外へ目を向けた。
不安はいくつもあるものの、きっと悪い方へ向かってはいない。クローディアには不思議な確信があった。