第二章 戦争の徒

 わずかにうかがえたグレンの瞳に、理性はない。浮かびあがるあざは広がり続けていて、ついに顔にまで至っていた。

 恐怖と憎悪、敵意と殺意に染められて、グレンの体は完全に自我を離れてしまったようだった。こうなってしまえば、クローディア以外に正気を取り戻させることはできない。

 体に力が戻る。喉が開き、空気が通る。

 立ち塞がる兵士が剣を向けてくるのも構わず、クローディアは前方へ掌を向けた。

「〈人よ、我が哀傷の奇蹟を見よ〉──!」

 クローディアの周囲で風が渦巻いた。

 ひるむ兵士たちには目もくれず、クローディアは石畳に流れる血へ意識を向ける。村ごと日常を破壊されたリヤンの人々を想う。感情へ意識を向けるほど、風は激しさを増していく。

 吹き荒れる風にフードを剥がれても、もはや気にならない。

 世の果て色の髪を背に広げ、神の果実と同じ色の瞳で前を睨む。

「〈憎悪によって憎悪を呼ぶことあたわず、憤怒によって憤怒を招いてはならない。これは私の求める世界の形である〉!」

 詠唱と同時、暴風の領域は戦場へ広がった。

 叩きつける風が、黒い軍服を持ち上げた。槍を捨て、盾での防御に専念した茶色の軍勢の前から、矢尻型の陣形が崩れていく。怯えた馬が甲高いいななきをあげた。

 武器を持つものへ向けられた精霊伝術は、グレンにも等しく襲い掛かる。吹き飛ばされたグレンは、その間も収縮した瞳でランディールを睨みつけていた。

 グレンは空中で姿勢を変え、脇を締めた刺突の構えで狙いを定める。そのまま両足で建物の外壁へ着地。風の収まる瞬間に、壁を構成する木材を踏み割ってランディールへ突撃した。

 崩れた体勢を整えながら馬を落ち着かせるランディールに、回避の余裕はない。速さの乗った切っ先が鎧の脇腹を食い破り、裂かれた肉から血が噴き出した。

 石畳に足をつけて減速し、振り向いたグレンの目にはいまだ理性が戻っていない。

 ランディールの負傷に真っ先に気付いたのは、いち早く体勢を立て直したスキナーだ。

「陛下……っ!?」

「グレン! 駄目!」

 クローディアの叫びに反応し、グレンが獣のような低い姿勢のまま動きを止める。

 対するランディールは、負傷も顧みずにクローディアへ集中しているようだった。風で広がっていた世の果て色の髪が背中に落ちた後も、得体の知れないものへ向ける目で彼女を見下ろしている。

 嵐が去り、不気味なほどの沈黙が落ちる中、最初に動いたのはランディールだった。手綱の片側を引き、馬の向きを反転させる。

「……退くぞ」

 声もなく、フリーデンの軍勢は行為のみで指示に応答した。騎馬に続き戦場を後にしようとする黒の軍服の中で、スキナーだけが振り返って長い柄の中ほどを掴む。

 盾を構えたまま陣形を崩さない兵士たちの後ろで、眼鏡の軍人が口を開いた。

「追いませんよ」

「へっ、どうだか。どう見ても獲物の追い詰め方ばかり考えてる人間だろうが、テメェは」

「それが仕事ですからね」

 眼鏡の位置を直しながら、「しかし」と軍人は続ける。

「我々が追撃『できない』のは事実ですよ。エル・プリエール領での積極的な戦闘行動については、許可をいただいていませんので」

 なんでもないことのように言う軍人へ、スキナーは舌打ちを返す。そしてぐるりと周囲を見回し、隊列へ入らなかった黒の軍服に視線を定める。

 負傷したフリーデン兵は、建物の壁にもたれて座り込んでいた。足の負傷は死に至るほどではないものの、自力で自国領へ戻るのは難しそうだ。それを悟っているのか、負傷兵は虚ろな目で地面を見つめている。

 取り残された自軍兵へ、スキナーは歩み寄る。

「ろくでもねぇことを考えるやつは、どこにでもいるもんだ」

 言いざま、歪曲した刃は狙い違わず負傷した兵士の首を裂いた。

 かつての仲間の血を靴に浴びても、スキナーは顔色一つ変えない。何度も繰り返した作業のように、それこそ他国に生きる他人を殺すように、同胞を殺している。

 その行為を、黒と赤の軍服たちは誰も咎めない。場の空気が緊張感を高めていくのをよそに、蹄と軍靴はよどみなく進む。入り組んだ街路で、最後にスキナーの背が見えなくなると同時に、グレンの体から力が抜けた。

 低い姿勢から石畳に倒れたグレンを見て、クローディアの体は自然と走り出していた。グレンの服にはあちこち血がにじんでいて、そのいくつかはグレン自身の血のあとらしい。近付く内に斬られた位置と返り血が見分けられるようになって、クローディアを焦らせた。

 クローディアはグレンのそばに膝をついて、あざの浮かぶ肌へ手を当てる。普段グレンの感情を落ち着かせるのと同じ要領で魔力を送りながら、その上体を抱えあげた。気を失ってはいるものの幾分落ち着いた表情になっていて、クローディアは胸を撫でおろす。

「〈人よ〉──」

 と、詠唱の半ばでクローディアの声が途切れた。

 ざわめきが耳に入る。無意識に顔の横へのびた手が空を切った。