第二章 戦争の徒
3
細い路地の終わりが見えて、クローディアは地面を蹴った。
飛び出した勢いを靴底で殺し、石畳を踏みしめる。
真っ先に目についたのは、黒と赤を基調にした軍服の集団と、馬に騎乗した鎧姿の男だ。
彼らの視線は一点に集中していて──その先で赤毛が揺れている。
集団の隙間から、肌にあざのような文様を浮かせたグレンの姿が見えた。
再び走り出そうとした足を、クローディアはどうにか押しとどめた。代わりに、沸きあがった感情をそのまま詠唱に乗せる。
「──〈人よ、我が慈愛の盾を見よ〉!」
同時、グレンの周囲で景色が歪んだ。
不可視の盾が、グレンに迫ろうとしていたいくつもの刃を受け止める。声に気付いた数人と、騎乗した老年の男がクローディアへ目を向けた。
ぞわ、とクローディアの背中が粟立った。黒い馬に跨った男の目は、文字通り闇のように暗い。
それは、ただの色彩ではない。幸せを失い、望みを絶ち、救いを諦めたものが持つ闇の色だ。
視線に、重さすら感じる。
「…………!」
言葉もなく、クローディアは息を吸い込んだ。
血の匂いがする。転がされた死体が視界に入る。緊張と恐怖で、吐く息が喉につかえた。
しかし──その感情は、離れていてもグレンに伝わってしまうはずだった。
クローディアは縮こまろうとする体から力を抜き、深く息を吐く。無意識に退こうとした足を、一歩前へ。
大丈夫、と口の中で唱える。
クローディア自身へ言い聞かせるように。できれば、グレンまで届くように。
「精霊伝術師か」
騎乗した男が、呟きざまに腕を振る。
その動きに反応して、グレンを囲んでいた兵士の一部がクローディアへ向き直った。手に持つ剣は、すべての刃に血のあとが残っている。
「……厄介な」
言葉に反して、男の表情に動きはない。消える様子のない眉間のしわが、わずかに深さを増した程度だろうか。
複数の人間から敵意を向けられて、クローディアは再び深呼吸を一つ。心に生まれかける揺らぎを押しとどめ、グレンに意識を向ける。
精霊伝術の要は感情。
クローディアの心にグレンを案ずる気持ちさえ残っていれば、不可視の盾は崩れない。
もちろん、その感情をなくすつもりはない。が、一人でも多く、兵士をこちらに引きつけておきたかった。
クローディアは、フードを掴んでいた手を離す。
「あなたがリヤンを襲ったの?」
問いを向けられ、老年の男は初めて明確に表情を変えた。
口の端が歪んで、笑みを作る。その形は、決して好意的とは読み取れない。
「それは、昨晩燃えた村か?」
「────」
「通りざまに滅ぼした村の名など、わざわざ調べていられんよ」
唇を噛むクローディアに対し、馬上の男は悠々と目を反らしてみせた。
「スキナー、精霊伝術師への対処法は覚えているな?」
「へいへい」
軽い口調で答えたのは、グレンの正面に立つ軍人だ。歪曲した刃を持つ長物を携え、スキナーがゆるりと動き出す。
それを追って、グレンが剣を振る。不可視の壁の内側で阻まれた切っ先が震えていた。
理性を失って収縮した瞳が、それでもスキナーを捉えて離さない。
「グレン……!?」
「精霊伝術は感情によって成るそうだな」
再び、馬上の男はクローディアへ言葉を向ける。
「その慈愛とやら、何人の死に耐えられるか見せてもらおう」
「な──!」
言葉を失うクローディアをよそに、スキナーはゆったりした歩調で逃げ遅れた市民の元へ歩み寄る。後ずさる者には目もくれず、死体に紛れて横たわった男を足で仰向けに転がした。
短い悲鳴がクローディアの耳へ届く。こめかみから流れる汗が、やけに意識に残った。
制止の言葉はうまく声に乗ってくれない。それどころか呼吸すら不安定になって、細くなった喉で空気が鳴る。
スキナーが振るう長物の動きが、妙に鮮明に見える。その軌道が弧の半ばまで描かれたところで、不意に乱れが生じた。
息をのんだクローディアの視界の端で、建物の陰から飛び出した人影が一つ。槍を前方へ向けたままスキナーの横腹へ突進する。
寸前で槍の穂先を反らしたスキナーは、直後に急停止した槍使いの蹴りをかわせなかった。後退を強いられたスキナーに対し、槍使いは背負っていた盾を左手に持ち直して数歩前に出る。
茶色基調の軍服をまとった姿に、クローディアは目を見開いた。黒髪の若い軍人は、盾を持つ左手を前にして重心低く構えている。
「また……邪魔が入りやがったな」
数度咳き込んだスキナーが、憎々しげに吐き捨てる。
その言葉をかき消すように聞こえてきたのは、接近する複数の軍靴の音だった。