第一章

 ぎぃ、とネズミから漏れた悲鳴が、ノイズの隙間から萩原の耳に届いた。

 ヴィオレの体格は、巨大ネズミと比べても小柄に見える。高所から飛び降りたとはいえ、骨盤を踏み折るなど小さな体で引き起こせるような現象ではない。ずり、と後ろ足を引きずるネズミの姿を見れば、そのダメージの深さも想像しやすい。

 下肢の機動力は失われたものの、ネズミの反応は速かった。前腕だけで体を揺らして襲撃者を振り落とすと、後ろ足を引きずったまま頭の向きを変えて襲いかかる。

 ヒトの胴体などたやすく両断できそうな前歯がヴィオレに迫る。ネズミが一歩を踏みしめるたびに地面が震え、定点カメラからの映像もガタガタと揺さぶられる。

 劣悪になった足場で、ヴィオレは的確に回避行動をとっている。それでも、見ているだけの立場であるはずの萩原は、もどかしさを感じずにはいられなかった。

 本来、人間がペストと戦おうとするのに、距離を詰める必要はない。それを可能にするだけの技術を人間は持っているし、ヴィオレもその恩恵を授かるはずだった。

 しかし、授からなかったからこそ「失敗作」として浅間に残り、今ペストの脅威を退けようとすることができるのだから、それを責める相手はどこにもいない。

 うまくいかないものだ、というネガティブな言葉を、萩原は喉の奥に留める。

 イヤフォンから聞こえるノイズは、ヴィオレの動きに伴う音と共に激しさを増していた。靴が砂を噛む音か、耐えることのないノイズなのか、判断がつかない。

 距離をとったヴィオレの前で、巨大ネズミは薄く口を開いていた。

 強靭な前歯のわきからこぼれているように見えるのは、ネズミの口腔内で燃え盛る炎だ。ヘビの舌を思わせる動きで存在感を主張する炎が、ヴィオレに向けて放たれる。