狩人の屋敷
神代市(くましろし)郊外。
都市部とは打って変わって、一帯には山林が広がっている。都市開発を進める中心地に対し、自然保護地域に指定されたエリアの建物は比較的古いものが多い。といっても真新しい新興住宅街がないだけで、そろそろリフォームを受けてもよさそうな、少しくたびれた印象を受ける家屋が山林の隅に並んでいる程度のものだ。
ただし、例外が一つ。
住宅群からも少し離れた、林の隙間にひっそりと建つ日本家屋。それだけは、利便性を度外視した趣味の領域にあるような古さだった。
「……また脱走か」
ぎし、と古びた床板を踏み鳴らしながら、家主の男が呟く。
家主といっても、デュランダル・オンラインのハウジングシステムを利用したプレイヤーではない。男はどちらかと言えば管理者サイドの人間で、拠点として利用しているこの日本家屋も製作会社のJabberwockyから支給されているものだ。
拠点というほど頻繁に使っているかと問われれば、首を縦に振ることはできないのだが。
閑話休題。
男にとっての目下の問題は、監視対象をロストしたことにある。
業務連絡を受ける前に家の中にいることは確認していたので、この五分足らずの間にどこかへ行ってしまったと考えていい。
その程度の時間で稼げる距離など、たかが知れている。
男は浴衣の帯を直すと、そのまま土間に並んだ下駄をひっかけて外へ出た。林特有の湿った空気が鼻につく。
管理者権限でエリア移動のログを検索するまでもなく、舗装されていない柔らかい腐葉土に小さな足跡が残っているのを発見した。それが町ではなく山の方へ向かっていることにげんなりしつつ、男は仕方なく足跡を追う。
監視対象のロストはたしかに目下の問題ではあるのだが、その前に伝えられた業務連絡でもなかなかに面倒な仕事を押し付けられたばかりだ。
曰く、不正規ルートでログインしたユーザーの捕縛。
必要であれば戦闘行動も許可する、とは言われたものの、そもそもその許可が必要なかった状況など男は陥ったことがない。そこまで友好的であれば、彼が呼ばれることなどまずないからだ。
特別招待枠──ビジター。
彼らの目的と行動は、Jabberwockyのそれと相容れない。
男の目的とも。
──と、緩やかな山道を少し登ったところで、木の根元で上を見てぴょんぴょん跳ねる白い人影があった。
身長はかなり低い。年齢で言えば十に満たない子供程度で、不釣合いに大きい獣の耳と尻尾が人影の興奮度を表している。
毛を逆立てた小型犬のような印象を与える少女だった。
「……おい、クソ駄犬」
言いざま、男は少女の首根っこを掴んで持ち上げる。ふぎゅ、という声が聞こえたような気もするが、聞き慣れたものなので問題はないだろう。
「なにか言い訳は考えてあるか?」
「いぬじゃない! おおかみ!」
少女が口を開くたび、確かに狼と自称するだけの牙は生えているのだが、いかんせんサイズが控えめでいまいち脅威にならない。
少し目立つ八重歯くらいのチャームポイントに成り下がっているのが現実だった。
「脱走しては飼い主に捕まる狼がいるか」
「だっそうじゃないし! ねこおっかけただけだし!」
そう言えば木の上を見ていたな、と男が視線を上げると、確かに木の枝には少女から逃げたらしい黒猫がうずくまっていた。
「やってることは犬と同じだな」
「ふぎゃー! いぬじゃない! おおかみ!」
再びの主張もむなしく、少女はいまだ首根っこを掴まれた猫のようにぶら下がっている。
狼の威厳などどこにもなかった。
それでも少女が監視対象になりうるのは、彼女が管理者の想定しないNPCだからである。
行動が読めない。けれど削除して他のシステムに影響が及ばないとは限らない。となれば、見ていられる人間が見ているくらいの対処しかとれないのが現実だった。
対症療法のような方法は、不正プレイヤーへの対処と少し似ている。
「犬だろうが狼だろうが、俺に仕事が入ったんだから猫との追いかけっこは終わりだぞ」
「ふぇっ? やすみじゃないの?」
不思議そうな顔をする少女に対し、男は表情一つ変えずに言い切った。
「狼には狩りをしない日があるのか?」