プロローグB

    プロトコルを確立します_

    適応するインターフェイスの特定は完了、最適化処理中*****
    ■■■■■■■■■■■■■■100%

    『ダイブ』は問題なく正常に動作を開始しました_



 暗闇だった空間にちらちらとした光が明滅して蠢く。初めこそ白黒の単純なフラッシュだった光はすぐに色を獲得し、連続。断片的な発光から継続的な点灯に作業を切り替えた。

 突き抜けるような蒼穹とそこを漂う白雲。

 そして端々で揺れる深緑の木々。

 それが、目を覚ました立花杏子(たちばなあんず)が捉えた最初の風景だった。

 今現在見えている風景と併せ、後頭部、背中、尻部に走るカサリとした感触から総合的に判断するに、ここが外であるという事は間違いないのだが……。

 脳髄に残響する鈍痛を噛み殺して杏子は身体を起こす。突っ張る様に地につけた掌から伝わってくる草の感触は寸分違わず本物だ。

 優しく吹き抜けていく風は何か花の香りを運んでいて、上空から降り注ぐ陽光からはじんわりと暖かさが伝わってきて。

 ──……有り得ない。おかしい。

 これだけ現実的(リアル)であるにも関わらず、杏子は自身の感覚信号を疑った。

 それもそのはず、何故なら杏子は先ほどまで自室のデスクに向かって来週の会議資料を作成していたのだから。

 それがどうして外に?

 うまく回転しない頭でプロセスを思い出してみるも結果は虚しく、未だに響き続けている鈍痛のせいか直前の事が思い出せない。辛うじて回想できる事があるとすれば、会議資料の補助イラストをインターネットで検索していた事か。確か、フリー素材のサイトを閲覧して、リンクバナーから更に別のサイトにジャンプして────そうやって大まかに記憶をたぐり始めた直後だった。

 突然、杏子の脳内に映像がフラッシュバックした。

 本棚とオープンクローゼットが並んだ洋間。

 窓の外は梅雨の到来を匂わせるような湿っぽい空気で。

 時計の針は十二時を示していて。

 デスクの照明が唐突に消えて、プリントアウトした書類が宙を舞って。

 シングルベットに腰掛ける幼い女の子──何かを告げて微笑んで──机上のノートパソコンは何か文字を形成しようとしている途中で──触覚が鈍くなって嗅覚が薄らいで視覚が狭く映像が声が身体を取り巻くすべてが──それでも──女の子の呟く声だけは──八面玲瓏──────ハッキリと、耳に


『──お姉ちゃんは、良い人間かい?』


 ハッとなって意識を取り戻した杏子の頭痛は、不思議な事に消えていた。

 しかし、やはり詳しい事は何も思い出せない。断片的に脳裏をよぎっていった先の映像を呼び出す事はできるのだが、それが一体どういう意味で何を示していて、どんな事に繋がっているのかまでは。

 さくさく、と。

 混濁した脳みそに聴覚が捉えた音の情報が流れ込んでくる。

 何の気なしにそちらの方に目を向けてみると、木造りの古めかしい建物が視界に飛び込んできた。その建物の前には石畳の道を挟んで対面する二つの石像が。何を造形しているかはよく分からないが、動物のようなものである事は辛うじて理解できる。傍らには竹ぼうきをさっさか払う巫女服の少女の後ろ姿。

 端的に言えば、ここは神社だった。あの建物は神社の殿だった。

 そしてそこから読み取れる現在地は境内である。

 今見えている殿の更に後ろにもう一つ建物があるようで、屋根の造形が若干違うところから、そちらが本殿なのだろう。

 杏子の自宅近くにある自治会運営の小さな神社と比べるとその差は歴然で、灯籠や手水舎も覗えるあたり立派な神社だ。

 境内の様子を見ていて気付いたことがある。

 それは、ここが杏子の全く知らない所だという事だ。

 文化圏的には日本と見て問題はなさそうだが(それも実質的に怪しいが)、行ったことのない所、知らない所なんてものは自国と言えどごまんとある。

 都内の広告代理店に勤めていれば旅行などに行く機会もどっと減るわけで。仕事の都合上、地方でイベントを開催する事があっても、いちいち景色など覚えていない。

 こんな時は文明の利器が役に立つ。

 という事でスキニーパンツのポケットに押し込んだ薄型のスマートフォンを手に取った杏子は、ホームボタンを押して待ち受け画面を呼び出した。のだが、不可解な事に画面右上に表示されるアンテナは一つも電波を受信していなかった。

 電源のオン、オフを数回試してみたが功を奏さず、圏外状態は回復しない。

 そんな感じでがちゃがちゃとやっていると不意に声を掛けられた。重く垂らした頭を持ち上げると、石造の付近で掃除をしていた巫女服の少女が近づいて来ていた。

 杏子は少女を見て、今更ながらに驚いた。

 クリーム色の髪からは染めているような不自然な色彩は感じられない。地毛と思われる。

 雪の様に白い肌はきめが細やかで、おおよそ日本人が持つ肌色とは言えない。

 何より、眼。

 双眸は包帯で完全に閉じられ、その下をうかがい知る事はできない。ぐるぐる巻きにした包帯の上に記された瞳は、まるでこの世の全てを見透かしているかのように玄妙で、神聖な印象さえ受ける。

 しかし実際、こんな状態では視界もなにもあったものではないだろう。

 と訝しむ杏子に対し、巫女服の少女は、さも眼が見えているかのように真っ直ぐ杏子を見つめ、ぽつりと言葉をもらした。

「……えと、参拝のお客さまですか?」