第一章

 珍しく寝ざめが良かった。

 これと言って他に理由はない。神藤杏子(しんどうあんず)が早朝に自力で目を覚ましたのは、完全に偶然の出来事だった。

 前日の仕事が早めに終わったおかげで夜十時には布団に就くことができたとか、先月頭にやっとこさ解決した件の残滓が終息の兆しを見せたとか、もちろん早起きに至るファクターは存在するのだが、それでも杏子が朝の五時半に自力で起床するというのは、宝くじの一等当選に匹敵するほど珍しいことなのである。同居人には「医者に行け! 夢遊病は怖いんだぞ!」と割かし本気のトーンで心配され、隣人からは手を合わせて拝まれた。

 ──人のこと、何だと思ってるんだっつーの。

 寒空の下、ベランダで煙草をふかしながら杏子はひとりごちる。

 二月の早朝は日の昇りが未だ遅い。マンション二階から見渡せる町は薄暗く、端々には夜の帳が残っていた。

 杏子からしてみれば珍しい夜明け時の町。慣れ親しんだ夕暮れ時とは違い、清々しいものがある。それはある種の優越感だったり、冬の空気の冷たさだったり、非日常的な行動をしたことからこみ上げる喜悦だったり。わざわざ快感の在りかを考察するのは無粋なだけだから、深く考えず感覚的にただ身を委ねるだけだが。

 頭を空っぽにしてぷかぷか煙をはき出しながら空気の心地よさに浸っていると不意にシャッターの開扉音が聞こえてきた。

 どうやら一階の薬局・龍心堂の入り口が開いたらしい。外に出てきた店主と目が合った。

「…………早く寝たほうがいいぞ」

 開口一番。向けられた言葉に杏子のこめかみがぴくりと動く。